2014年5月6日火曜日

「ルーツ」の主人公クンタ・キンテはムスリムだった!: 掘り起こされるもうひとつの黒人奴隷の物語

 1970年代の大ヒットテレビドラマ『ルーツ』は、アメリカへのムスリム文化の導入を告げるパンドラの箱を開けていた?

by 大竹秀子


1977年に『ルーツ』は大ヒットし、テレビのミニシリーズの走りとなった


「ルーツ」(DVD)を観ていて驚いた。主人公のクンタ・キンテがムスリムだったからである。ムスリムをヒロイックな主人公としたテレビドラマが全米の茶の間をわかせる!9/11後のいまでは、想いもよらないことである。


 「ルーツ」は1976年に出版されたアメリカの黒人作家アレックス・ヘイリーのベストセラー小説だ。1977年にABC局で8日間にわけてミニシリーズ化された時には、最高で1日に3630万世帯で視聴され、番組を観たい人たちのため「劇場は閑古鳥が鳴き、ソーシャルイベントはキャンセルされる」ほどの人気を呼んだ。自らの先祖を探す「ルーツ探し」は全米の熱気をかきたて、「ルーツ」ということばが日本を含め、世界にひろまった。

 ペーパーバック版で912ページにもおよぶこの大河小説は、こんな文章で始まる。

 「1750年の早春、西アフリカ、ガンビアの沿岸から4日間川を遡ったジュフレという村で、オモロ・キンテとビンタの間に男の子が生まれた」。

 アレックス・ヘイリーの6代前の先祖とされる主人公クンタ・キンテの誕生である。数行後に、こう続く。


 「先祖の言い伝えによると、初めて生まれた男の子には両親だけでなくその家族にもアラーの特別の祝福がもたらされる。キンテという家名は、高貴であり永遠に続くという誇り高い了解がそこにはあった」。

 キンテ一族はマンディンカ族の血筋だとされる。マンディンカ語を共通言語とするこの部族は、マリ帝国の子孫だ。13世紀から17世紀半ばまで栄え、サハラ砂漠を超えて交易を行い中東と西アフリカをつないだこの帝国は、イスラム教を西アフリカに広めたことでも知られている。


 テレビ映画では、この血筋と先祖から受け継いだ文明がクンタ・キンテのアイデンティティを生涯、支える。奴隷狩りにアメリカに運ばれ新しい名を強要され一族の名である姓を奪われても、彼には「アフリカ」と「自由」の記憶がまざまざとあり、それが奴隷の身でもつぶれないあらぶる魂をたきつけ続ける。そのために彼は、忍従に甘んじるしか生き方を知らないアメリカ生まれのほかの奴隷から浮き上がり異質な人になってしまうのだが、奴隷主の目をあざむきながら「自由」への希求を失わない姿勢は、その他大勢の奴隷たちの憧れの的ともなるのである。自分はこんな境遇にあるべきではないとする確固とした自負心と誇り、逆境をしいる奴隷制や奴隷主に対する反抗心、その想いを支えたアイデンティティのひとつがイスラム教であったとこの物語は暗然とではあるが示唆している。

 ムスリム奴隷というこのアイデンティティに対しては、本の出版直後に批判の声があがったらしい。マニング・マラブル編のBlack Routes to Islam(『イスラム教のブラックルーツ』)序文によると、ある批評家は「キリスト教の船長が仕切る奴隷船の船倉で、鎖につながれたクンタ・キンテや仲間たちがアラーへの祈りを捧げる」シーンを取り上げ、こんなことはありえない、こんなのは(1960年代と1970年代に勢いを得た)ブラック・ムスリムとブラック・パワー勢力を喜ばせようとするヘイリーの創作だと決めつけた。万一、奴隷の中にムスリムがいたとしてもそんな信仰は奴隷船の中ですぐさまかき消され、何の痕跡も残さなかった、アメリカにムスリム奴隷など、存在しなかったというのが当時の社会通念だったのだ。


新大陸でのムスリム奴隷の水脈



 だが、これが間違いだったことがここ20年あまりの研究で明らかにされている。1998年に初版が出されたServants of Allah: African Muslims Enslaved in the Americas (『アラーのしもべ:南北アメリカのアフリカン・ムスリム奴隷』)の著者シルヴィアン・A・ディウフ(Sylviane A. Diouf)は、2013年に再出版となった15周年版の序文でアメリカ国内での9.11後のムスリムへの強い関心が自著を思いもよらぬ静かなベストセラーにしたと驚きを語っている。

 ちなみに2001年は、1501年にスペインが黒人奴隷を初めて「新大陸」に連れて来てから500周年にあたっていた。だが、新大陸にムスリム奴隷が上陸したのは、しばらくたってからのことだ。かつてイスラム教王国に支配されていた歴史をもつキリスト教国スペインとポルトガルは、まっさらの新大陸にイスラムの種をまかないよう当初は細心の注意を払った。キリスト教に改宗した奴隷以外は新大陸への売買は禁止されたし、その後も厳罰を与えて新大陸の奴隷にキリスト改宗を強いた。だが結局、南米やカリブ諸国、特にブラジルではムスリム奴隷の水脈は絶えることなく続き、1835年のバイーアでの反乱をはじめ、ムスリムは数多くの奴隷たちの反乱で指導的役割を担うことになった。


奇妙な別格扱い


 これに対して国内でムスリムとの戦いが起きたことのなかった英国は、改宗にさほどこだわらなかった。それなのに逆にムスリムの痕跡が稀薄で水脈が絶えてしまったのは皮肉なことだ。北米でのムスリム奴隷について発見されている資料は数多くないが、点在はする。それを見るとムスリムが威厳とリーダーシップもつ人々として一目置かれていたことがわかると、前述書でマラブルは述べている。中でも、ジョージア州の沖合にあるサペロ島(Sapela Island)に住んでいたムスリム一族のビラリ(Bilali)という名の長老は、そのカリスマ性で知られ、19世紀末にはこの人物をテーマに子供向けの本が2冊も出版されたという。


オマール・イブン・サイード

 また、オマール・イブン・サイード(Omar ibn Said, 1770 - 1864)のような学者もいた。この人は37歳の時にセネガルで捉えられアメリカに売られ生涯、奴隷の身から免れなかった。表向きはキリスト教に改宗したと見せかけていたが、実はイスラム学者でアラビア語で自伝的エッセイを書き残している。有名人だったのだろう。1846年にノースカロライナの地元紙は彼のことを記事にとりあげ「高貴な家系に生まれたアラブ人」と記載し、「フラニ族と呼ばれる17世紀にアフリカに移住したアラビアのイスラム教徒の子孫で、この部族は、移住に際して彼らの偉大な予言者の宗教と共に文字ももたらした」と説明した。サイードは長生きしたため写真も残っているが、その顔ははっきりと「(サブサハラアフリカの)黒人」であり「アラブ人」ということばから連想される民族性はみられない。

 だがイギリスの影響が強かった当時のアメリカでは、アフリカのムスリムをアラブ、オリエント、ムーアの血と直結させ、ほかのその他大勢のアフリカ人と一線を画そうとする見方が支配的だった。アフリカのムスリムを「非黒人化」扱いしようとしたのだ。この企てをヘンリー・ルイス・ゲイツは、こう解釈する。当時の啓蒙思想の視点からみると文字を持つ(アラビア語の読み書きができる)ということは「理性の証」だった。アフリカの黒人に理性の証拠をみせてもらっては、困る。奴隷制や植民地支配を支える人種階層のイデオロギーが揺るぎかねないからだ。ディウフもこう論じている。「『生粋』のアフリカ人が知性も文化も備えているにもかかわらず奴隷にされていると考えるよりは、高貴なムスリムは実はアフリカ人ではないのだと言う方が都合がよかったのだ」


分断の道具、そして植民地主義のお先棒かつぎ


 これとは別に、フラニ族、マンディンカ族など多くのムスリム奴隷は顔かたちや肌の色がほかのアフリカ人よりヨーロッパ人に近いとみなされていた。このため、アメリカでは、ほかの奴隷よりも高い位置に置かれることが多かった。馬車の御者やほかの奴隷の監督役の任をまかされ、反抗的な奴隷について告げ口をしたり、反乱の動きがあればこれをつぶした。厚遇されて奴隷仲間よりも主人の側につくムスリム奴隷は、奴隷主側にとっては分断して支配するための格好の道具だったのだ。




 マニングによると、さらにアメリカのムスリムたちは、アメリカの植民地主義のお先棒までかつがされた。19世紀はじめ、解放した奴隷はアフリカに帰ってもらうのが一番だと考えた人々が、その名もアメリカ植民地化協会(America Colonization Society)を創設し、シエラレオネにアメリカの植民地を作ろうと企画した。リベリア建国の試みだ。解放奴隷にアメリカ国内で反乱でも起こされたら厄介だし、いてもらってもろくなことはない。彼らを「植民者」としてアフリカに送り返してはどうだろう。特にアラビア語の読み書きが出来るムスリムは、西アフリカでの入植に絶好だ。西インド諸島を通さない直接貿易の拠点がアフリカにできれば経済的にも一挙両得ではないか。

 ただひとつ困ることがあった。アメリカ植民地化協会の主要メンバーは、福音主義者とクエーカー教徒、そしてチェサピーク湾岸の奴隷所有者たちだった。福音主義者としては、どうせアフリカに送るのなら、入植者にはやはり現地でキリスト教を布教してほしい。アフリカに帰るだけではまずいのだ。アフリカに帰りたい一心で、突如、キリスト教に改宗しキリスト教の伝道者としてアフリカに戻ったムスリムもいた。だが、リベリア建設をアメリカ国内から自由な黒人を追放しようとする動きだとみる奴隷廃止論者たちはこのような企画に迎合するムスリム奴隷たちに激怒した。


もうひとつの奴隷の物語


 話は『ルーツ』に戻る。西アフリカを訪れ、村の語り部のことばで自分の先祖はこの村から来た、自分のルーツはここだという確信を得たとアレックス・ヘイリーは断言した。だがいまでは、その物語の多くは、フィクションだったことが明らかにされている。ヘイリーは後に、「私はただ人々に寄る辺となる神話を与えようとしたのだ(I was just trying to give my people a myth to live by.)」と語ったと伝えられる。

 ヘイリーは、1965年に出版された『マルコムX自伝』の共著者でもある。マルコムXのインタビューをもとにしたこの自伝にもまた、事実と異なる部分がいくつも指摘されている。だが、その「事実の改ざん」がマルコムX自身によるものか、ヘイリーによるものかは、わかっていない。

 ヘイリーが、著作を通して築こうとした神話とは?おそらくは、ヘイリーの中に、そして彼の本を受け止める読者の中に、愛と忍従としの奴隷や黒人の物語に「そろそろ勘弁してくれ」という思いがあったのではないだろうか。アンクル・トムもマーティン・ルーサー・キングもマンデラも最後は赦すことを期待される。キリスト教色に塗りつぶされたこれらの物語は美しく聞こえるが、ある意味、大変「身勝手」でもある。神に祝福されるあの世を前提としない限り、あるいは聖者へとワープしない限り、被害者は踏んだり蹴ったりされて終わるのである。

無力でやられっぱなしでお慈悲を頼りに生きるしかない過去だけしかなかったというのでは、なんだかしょぼい。誇らしい過去とアイデンティティがあってもいいじゃないか。クンタ・キンテの物語やビラリやオマール・イブン・サイードなどのムスリム奴隷に関する歴史研究は、忘れ去られてしまったアフリカの記憶への風穴をあけ、誇り高いもうひとつの奴隷の物語をかいま見せてくれる。

 「ジャーナリズムが扱うのは、事実。小説が扱うのは、真実」と言った人がいる。ヘイリーが描いた神話がそのような真実を求めたのだとしたら、アフリカン・ディアスポラの新しい研究はその「真実」が実は「事実」でもあったことを明らかにしつつある。

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